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2003-2004
小野たかし事務所

≪小野たかしの世界(随想)≫

 


No4
『成熟の社会 ― 日本人の心はどこへ』

 暑中お見舞い申し上げます。
 泉区の皆様には日頃ご指導ご鞭撻を賜り深謝申上げております。

 本日は、成熟した社会に有って日常考えております問題を述べまして、高覧に供させて頂きます。

 宇宙の万物には、成長と衰退の時があると言われ、ローマ帝国、徳川幕府にしてもしかりであります。戦後、日本は、国土の復興と経済の発展、そして人々の豊かな暮らしを目指し、国民が汗まみれになって、仕事に生活に努力をした結果「経済大国」を実現し世界先進国の仲間入りを果たしました。 しかし、急激な発展と五十年が過ぎた日本型経済は手法、手段、組織の各部署で動脈硬化を起こし、そして、また世界型経済への新たな参入に伴い、大きな変革の岐路に立たされております。近隣諸国のアジアからの追い上げに遭い、バブル経済の崩壊と共に日本経済は失速状態であります。

 この間の経済最優先、利益追求のあまり、無節操、無秩序、無責任が蔓延し、社会的破綻に進んでいるように思われて仕方がありません。現在社会における、今日的考えをまとめると次のようになります。

  @ 自分のことだけしか考えない。
 A 甘やかされて辛抱がない。
 B 物事にけじめがつけられない。
 C 正しいものと正しくないものに区別がつかない。
 D 弱者への思いやりがない。
 E プライドがない。
 F 神を恐れない。
 G 謙虚にならない。
 H 感謝をしない。
 I 物を大切にしない。
 J 節約をしない。
 
 果して、このような考え方で明るく豊かな心の社会・成熟社会の二十一世紀はやってくるのでしょうか。日本人の心はどこへ行ってしまうのでしょうか。

 自由主義、個人主義、勝手主義、自己主張が強い、個性尊重が多様化などばかりで、責任、秩序、節操がありません。やはり、責任ある言葉、行動力で、自分の自由を主張する前に、他に迷惑をかけない人間として、生きるため最低の基準があっても良いのではないでしょうか。

 この基準こそが、世界に通用し、国民が豊かで楽しい二十一世紀を迎えることができると確信をいたします。



No3
インドの高速道路
 今年の五月、初めてのインドを旅する機会に恵まれた。

 赤色の岩を積み重ねてできた建物か続く古都ジャイプールから首都デリーの間、三分の二ぐらいに、新しい高速道路ができた。片側二車線に中央分離帯と側道がついて、側溝もなくアスファルト舗装をしただけの一般道に比べれば、確かに、ハイウェイといわれるぐらい広い道路である。しばらくは、のどかな田園風景が続く、今は、すべてが乾季でカラカラに乾ききっている。温度は、四十二〜三度Cで、とにかく暑い! 三毛作の際(きわ)で田畑には、何も作られていない。

  六月からは、雨季で、雨が多く降れば、同時に田植えが始まるそうで、水路はなく、乾季になって田に水が無くなると稲刈りをするという、自然に合わせた農法である。そのハイウェイを人やトラクター、そして、牛、ラクダまでが、ゆっくりと横断する。自転車、バイク、人が山のように乗りはみだしている定員超オーバーの小型トラックも一緒に走る。沿道にある店、食堂に入るため、切れている分離帯から、時折り、逆走してくる大型トラックもありだ。

 所々に、いろんな店やバラックのドライブイン、ガソリンスタンド、自動車修理工場などが立ち並び、その前には、駐車中の車がひしめき、一車線がふさがれている。それでも、カーレースの如くスピードを出して、車は走って行く。追い越すためにクラクションは、鳴りっぱなしだ。砂漠的な土地柄で草木も少なく、砂ぼこりが舞い、くもりの状態である。車線を分ける白線などはない。あたりの田圃は、時間を感じさせない悠久の大地だ。

 しかし、インドのエネルギーを感じる高速道路とは、妙にマッチして、長い伝統文化と国の発展、人々の力強さが熱風と共に追ってくる。日本の戦後、あの頃のデコボコ道を思い出す。今、日本では、道路特定財源が論議をされているが、このインドの道路状況を見る限り、ここにこそ、その必要性は大である。

 十億の人々が、貧困と暑さと戦っているが、暴動は起きない。淡々と自然に倣って暮らしている。宗教心の為なのか、国を想ってか、家族を想ってか、真に平和である。それは今の日本には無い。

『 句 』

■ 貧しさの  大地を焦す インドかな
■ 水乾き   時なく川は 流れゆく
■ アグラ城  四十五度Cの 遺産かな
■ 人、人、人 大きく動く ムンバイ市
■ 牛の足   車は速き  街の中



No2
『 上善如水(じょうぜん みずのごとし) 』
  「上善如水」、私は日本酒が好きで、新潟の有名な地酒として愛飲している。

  これは、中国の老子の言葉で、「上善は水の如し」である。上善とは、最も理想的な生き方という意味で、そういう生き方をしたいと願うなら、水のあり方に学べというのである。水には学ぶに足りる特長が三つある。

  まず第一は、きわめて柔軟であることだ。四角な器に入れれば四角な形になるし、丸い器に入れれば丸い形になる。器なりに形を変えて、少しも逆らわない。第二は、低いところに身をおくのは誰でも嫌がるものだが、水は人の嫌がる低いところ、低いところへと流れていく。すこぶる謙虚なのである。自分の能力や地位を誇張しようとしないのである。 第三は、ものすごいエネルギーを秘めている。急流ともなれば、固い岩石をも打ち砕いてしまう。このように水には柔軟、謙虚、秘めたるエネルギーの三つの特徴を持っている。

  小泉首相が首相就任演説の中で、「米百俵」に習い、旧体制に屈せず構造改革に政治生命をかけることを全国民に問いかけ、以来、「米百俵」はきわめて今日的テーマとして有名になった。
 主人公の長岡藩士・小林虎三郎は明治十年、五十才の生涯を終えるが、幕末から明治にかけての激動期に藩内の旧家臣制度に屈せず、自分の信ずる道を貫き通した彼の生き方は感動的である。

 新潟町奉行の小林又兵衛と妻・久の三男として生れ、藩校「崇徳館」で蘭学、陽明学、儒学、洋学を学び、その中で序々に力量を発揮し、一門の諸先輩たちよりも、抜きん出て優秀であった。嘉永三年、二十三才で結婚している。翌年、長岡藩主・牧野忠雅候より、江戸での遊学許可を得て、佐久間象山の塾に入門する。同じ門弟には、松田松陰、勝海舟、坂本龍馬、橋本左内などがおり、幕末の、名だたる人物の多くが象山の教えを学んだ。そしてオランダ語が得意で塾頭にものぼった。長岡藩は、奥羽列藩同盟に加担し、戊辰戦争へと突入するが惨敗を期す。敗れた長岡藩は、新政府から家禄を七万四千石から二万四千石へと減封され、藩士はリストラされずそのままで、生活も困窮状態に陥った。

 そんな折、長岡支藩の三根山藩から見舞いとして「米百俵」が贈られることになる。食えない藩士たちは、「米を分配せよ」と詰め寄るが、しかし、小林虎三郎は「儂は家中の者が、今どんなに困っているか知らないわけではない。百俵ばかりの米を分けても、一日や二日で食いつぶしてしまう。食いつぶした後には何が残る。貴公らの苦しみは充分察している。しかし、藩の立て直しには、まず土台から築いていかねばならない。みなが一体となって苦しみに打ち勝ってこそ、国や町も立ち直るのだ。この百俵の米は、今でこそ百俵だが、やがては、一万俵になるか、百万俵になるかはかり知れない。いや米俵などでは比較に出来ない尊いものになるのだ。」と説得する。

  この年、明治三年六月、虎三郎が命を賭けて成し遂げた学校は開校され、「国漢学校」と命名され、この学校は、士農工商という身分制度を排除し、現在の学校制度の基礎を築いたもので、誰でも入学出来る学校としてスタートしたのである。

 明治七年、「徳国学校論」の翻訳の中で、「国の強弱は、民の強弱にかかる。強弱とは国の広さや人数の多少をいうのではなく業につとめるもの、学によくはげむもの、勇気があって知識のある民のあるなしをいうのである」と述べている。

 小林虎三郎は、まさに「上善水の如し」の人生を生きたのではないだろうか。流れの早い時代こそ、そして変革の大きい時こそ「上善如水」に習うべきである。 

 (平成十四年一月 ゆーとぴあ)


No1
『不(ふ) 易(えき) 流(りゅう) 行(こう)』
----- 変えてはならないもの、変えるべきもの -----
 「不易流行」は、俳聖 松尾芭蕉の言葉です。・・・・・・・
一六八九年(元禄二年)に、まったく未知の土地、東北・北陸へ“歌枕” を訪ねる旅に出かけ、日本文学史上に名を残す「おくのほそ道」を書くことになりました。

 「おくのほそ道」への旅を始める前に、芭蕉は弟子の河合曾良(そら)と相談して念入りに歌枕を整理した上で、曾良を伴って、この年の春三月二十七日(陽暦五月十六日)に江戸・深川を出立。まずは日光から白河へ、阿武隈川沿いに仙台・松島へ向かい、さらに北上して平泉、最上川に沿って日本海の象潟、北陸をまわり、美濃大垣に至って、江戸に戻るという実に一五〇日間、六〇〇里(二四〇〇Km)を歩き通す壮大な旅でした。

 この旅によって、芭蕉は「不易流行」(万物は自然の理法によって変化流行していくから、詩的真実を表現するためには、表現法も対象の変化に対応して、変化流行していかなければならない)――という、芭蕉の詩人としての考えを固め、後に門人たちに説くようになるのです。
 
 不易とは「人の心や社会の盛衰まで世の中の森羅万象を司る不変の法則、時をこえた真理」であり、流行とは「時代性や環境条件により時に法則を打破するさまざまな変化」の事を言います。俳句をつくる上で絶えず新しい句材を求め、新しい表現を心がけないと良い作品ができない。絶えず新しさを追求して行くことが「流行」といわれる中身である。

 「不易」は俳句として存立する不変の条件であり、例えば五七五の十七音型である世界一短い詩形とか、季語の存在、「切れ」と呼ばれる「詩」の発生装置などのことである。いくつかの原則を不変の鉄則として維持して行こうということである。不易流行の原則はすべての事に、相通ずるものであり、社会、経済、教育、環境、政治など現代の変革期に重要な視点でもあります。

 社会面では、古来から受け継がれた伝統、文化など、失ってしまった「日本の良さ」、規範意識、道徳心、公共心などを「不易流行」の原則で、もう一度見直しすべき時ではないでしょうか。
また、経済にとっても、歴代の創業者の思いや理念は大いに役立ちます。継承し続けることが必要だとは思いますが、いつまでも時代遅れの戦略や手法では取り残されてしまいます。時代のニーズを的確に把握し、取り入れることも必要であります。この二つの「不易」と「流行」を使い分ける事が、これからの時代を乗り切る分水嶺ではないでしょうか。
 
 さらに教育面では、生命の尊さ、家族、地域のあり方、国際人としての自覚など、
環境面では、都市と自然との調和、地球の温暖化、ゴミのリサイクル減量化など、
そして、政治面では、平和の希求、治安の維持、国と地方のあり方、郷土愛の醸成など、・・・
どんなに目まぐるしく世の中が変わっても、求める真理は変わることなく、そのアプローチ、方法は時代とともに変化すると言う「不易流行」の原則で、「変えてはならないもの、変えるべきもの」を、すべての事象でもう一度見直しする時期が到来した事を感じている昨今です。

 私も「不易」と「流行」を基本精神に持ち、意識しながら新しいことに挑戦していきたいと考えております。


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